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第23回定期演奏会(98.9)のプログラム構成について
以下は、団内向けの文書です。団外の方が読んだ場合に表現が不適切な部分がありますが、ご了承ください。
富永順一(団員・フルート)

今回の演奏会のプログラミングについて、若干の私見を述べます。

今回の演奏会は皆さんご承知の通り、
   (1) レスピーギ 「ローマの泉」
   (2) ストラヴィンスキー 「プルチネルラ」
   (3) チャイコフスキー 「交響曲第6番 h-moll」
と言うものです。一見何の脈絡も無いようですが、このロシアとイタリアを結ぶなかなか興味深い線があると思います。

第1のキーワードは、「リムスキー・コルサコフ」です。

 リムスキー・コルサコフの「シェエラザード」はグローバルでもやりましたが、このリムスキー・コルサコフが今回の3人の作曲家を結ぶ接点です。

 リムスキー・コルサコフ(1844〜1908)は、近代管弦楽法を確立した大家です。ドイツ風の重く渋い、ある意味ではやや単調な管弦楽法(ベートーヴェン、シューマン、ブラームスを考えてください)に対して、彼の管弦楽法は各楽器が明瞭に聞こえてきて、それぞれの音色が生かされ、実にはなやかなものです。例えば、ブラームスの場合は最初室内楽として書き始めて、途中から交響曲にすることにし、最終的に協奏曲ができた、なんて言うのがよくありますが、これはもともとの発想がピアノで作曲しているからで、したがって各楽器の音色を生かそうということよりも、スコアが先に出来上がっていてそれにオケを当てはめているだけと言えなくもありません。しかし、リムスキー・コルサコフの管弦楽法では、最初からオーケストラのパレットが前提です。そのフレーズはその楽器でなくてはならない、その音色、ニュアンスが必要なのです。特に管楽器の生かし方で大きく貢献した人です。こういう発想で音楽を書いたのは彼以前ではベルリオーズだけでしょう。この2人がいなければ、その後のドビュッシー、ラベルもないと思います。

 さて、このリムスキーの4歳年上がチャイコフスキー(1840〜1893)です。チャイコフスキーはリムスキーの属するロシア五人組とは多少距離を置いていましたが、互いの親交と影響は大きく、活躍した時期も場所も深く関係しています。二人はほぼ同時期に、チャイコフスキーはモスクワ音楽院の作曲の教授として、リムスキーコルサコフはペテルブルク音楽院の管弦楽法と作曲の教授として活躍しています。しかし、作品はともかく教師としての影響力の点ではリムスキー・コルサコフの方が上で、チャイコフスキーの弟子にあまり有名な人がいないのに対して、リムスキー・コルサコフはその後の音楽史で活躍する何人もの大作曲家たちを育てました。

 その一人がストラヴィンスキー(1882〜1971)です。彼は20歳の時(1902)にリムスキーコルサコフに出会い、管弦楽法と作曲の指導を受け、この教師と弟子の関係は1908年のリムスキー・コルサコフの死まで続きます。いわばリムスキー・コルサコフの愛弟子だったのですね。実際、ストラヴィンスキーの初期の作品はリムスキー・コルサコフの影響が顕著です。その後の曲、例えば「ペトルーシュカ」などでもリムスキー・コルサコフの曲の引用があるぐらいです。

 そして、もう一人、はるかイタリアのボローニャの音楽学校で作曲を学んでいた一人の青年が、ペテルブルクのリムスキー・コルサコフのもとに管弦楽法を学びにやってきました。この青年こそレスピーギ(1879〜1936)です。レスピーギがリムスキー・コルサコフに学んだのは1900〜1901年にかけてと1902〜1903年の2度にかけてです。よほどいい先生でなければこんな遠くまで2度も習いには行くわけはないので、リムスキー・コルサコフの教育は素晴らしかったのでしょう。また、2回目の滞在がちょうどストラヴィンスキーがリムスキー・コルサコフに作曲を習い始めた時期ですので、お互いの面識もあったかもしれません。

 実際、彼ら2人の管弦楽の扱いはよく似ていると思います。例えばストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」の冒頭部分とレスピーギの「ローマの松」の冒頭部分のオーケストレーションはとてもよく似ているように私は思います。どちらも市場や街の賑わいをオーケストラで表現しているのですが、トリルやトレモロで伴奏されるざわめきの表現が非常によく似ています。これは、やはり先生であるリムスキー・コルサコフの影響が大と見ていいのではないでしょうか。

第2のキーワードは「イタリア」です。

残念ながら、チャイコフスキーとイタリアの関係はあまりさだかではありませんが、残り2曲はどちらもイタリアに密接に関係しています。レスピーギの方は彼がイタリア人で曲もイタリアそのものですのでそれ以上の説明は不要でしょう。

ストラヴィンスキーの「プルチネルラ」については、次の2つの点でイタリアに密接に関係しています。

(1) 題名のプルチネルラはイタリアの古典的な喜劇コメディア・デラルテの登場人物です。練習の時、森口氏も盛んに言っていましたが「コメディア・デラルテ」とは、イタリアの古典的なドタバタ喜劇で、ちょうど今でいう吉本新喜劇のようなものです。つまり、ストーリーは毎回少しずつ違うのですが、登場人物はほとんど一緒、そしてその登場人物のキャラクタ付けもきまっていて、彼の役回り、彼が使うギャグもほとんどワンパターンです。まさに吉本新喜劇ですね。まさに池野メダカやチャーリー浜が、アルレッキーノだったりプルチネルラだったりなのです。詳しくはこのメールの末にMicrosoft Encartaの項目を参照しておきましたのでそれを見てください。なお、一番重要な道化役アルレッキーノはフランス語ではアルルカン、そして英語ではハーレクインになります。あの女性向恋愛小説シリーズのハーレクイン・ロマンスのハーレクインですね。

ストラヴィンスキーが書いたバレー曲「プルチネルラ」は、このコメディア・デラルテが下敷きになっています。全曲版はもう少し長く2人の歌手による歌(古典歌曲そのもの)も入るものですが、全曲にわたってこのコメディア・デラルテの雰囲気に満たされています。

(2) ストラヴィンスキーが「プルチネルラ」を書くにあたって使用したのはイタリアの古典的オペラ作曲家ペルゴレージ(1710〜1736 早死にだなあ)のいくつかの曲です。その後の研究では厳密にはペルゴレージ以外の作曲家の曲も使われているのですが、ストラヴィンスキーもディアギレフもその当時はペルゴレージの曲と思っていたのでしょう。ペルゴレージは宮廷付きオペラ作曲家でしたから、庶民演劇のコメディア・デラルテとは直接は関係ありませんが、ストラヴィンスキーはあえて彼の曲をパロディ化してコメディア・デラルテを表現したのでしょう。パロディ化するにはもとが真面目な曲の方がしゃれが利きますものね。

 余談ですが、こうした古典曲を下敷きにして新たに作曲(編曲)をするのは当時はやっていたようで、レスピーギも同様な手法で有名な「リュートのための古典舞曲第1集〜第3集」書いています。私が思うに一番とんでもないのはシェーンベルクの書いたチェロ協奏曲ではないでしょうか。これはマティアス・モン(1717〜1750)の鍵盤曲をチェロ協奏曲に仕立てたというものですが、シェーンベルク自身がチェロが弾けたにもかかわらず無茶苦茶にチェロが難しい(と思うのですがどうなんでしょうか、チェリストの皆さん)曲で、異常なハイノート、やたら難しそうなダブルストップの連続、頻発する音程跳躍が出てくる実に面白い曲です。私はこの曲のヨーヨー・マが弾いたCDやマイスキーが弾いたFM放送を聞いたのですが、彼らとて四苦八苦しているのが目に見えるような演奏です。最初にこの曲を聞いたのは、某有名海外オーケストラがそのオケのトップをソリストにして演奏したFM放送ですが、もうボロボロでどんな曲かも分からない、手に汗握るものでそれ以来この曲が大好きです。この曲をちゃんと弾ける人っているのでしょうか?

 さて、このように見てくると、何か無関係な3曲がいくつかのキーワードで有機的に関係しているのように思うのですがいかがなものでしょうか。

ちなみに、今回のチャイコフスキーの第6と次回のマーラーの9番、2つをつなぐ線はアダージョ・フィナーレですね。

(参考)
コメディア・デラルテ

Commedia Dell'arte ヨーロッパでもっとも古く、多大な影響力をもった職業演劇の一形態。1550年代のイタリア北部ではじまり、以来200年間、盛んに上演された。6〜12人からなるコメディアの劇団は、伝統的な戯曲をもちいず、野外や即席の舞台、あるいは正式な劇場で即興の喜劇を演じた。舞台には類型的な人物が登場し、身につけた仮面や大げさな身振り、アドリブのようにみえる会話、音楽の間奏や道化芸などによって、階級や文化的背景を異にする大勢の観客のために劇が演じられた。コメディア・デラルテは、それまでの演劇が女性役も男に演じさせていたのに対し、女優を登場させるようになった。そして成立後まもなく、なじみのない文学的テーマをアマチュアが演じる当時の宮廷演劇をしりぞけ、演劇を代表し、芝居の面白さを象徴する存在となった。

コメディアにはお決まりの登場人物がいて、それがこの演劇形式独特のドタバタ喜劇的ユーモアをささえていた。たとえばアルレッキーノは道化的な召使いで、しし鼻の黒の仮面で表現され、機敏な軽業師のような存在である。いつも食べ物と女性をさがし、機転がきいて、子供っぽいずる賢さをもっている。

パンタローネはだまされやすい商人で、女性にいいよるために年をいつわり、体にぴったりのトルコ風の衣装を身につけている。パンタローネの友人ドットーレは無意味なラテン語をやたらとふりまき、ほかの登場人物が病気になったと思いこむと、あぶない治療法をすすめる。戦争や愛の勝利をひたすら自慢するカピターノは、いつも最後は、臆病者で、中身のない軍人であることが恋人にわかってしまう。不格好な太鼓腹のごろつきプルチネッラは、動物のような残酷さと肉欲を満足させるために、とんでもない陰謀をたくらむ。ある老人の召使いであったり妻であったりするコロンビーナは、この愚かな世界で人並みはずれた知性と魅力をしめす。

このような類型的登場人物たちをつかって、コメディアはさまざまな筋立ての芝居をつくりだした。俳優たちはラッツィとよばれる喜劇的なお決まりの演技を考えだし、笑いが必要だと感じられるときに、必要に応じてそれを演じてみせた。たとえば、退場の場面でわざとつまずいて、水のはいったバケツに足をつっこむといった具合である。

イタリアの内外でコメディアは絶大な人気を博した。1600年代には、スペインとフランスの政府がコメディアを検閲し、内容をとりしまろうとしたが、逆に類型的な登場人物と身体で表現されるユーモアが、しだいにヨーロッパ演劇の伝統にくみこまれていく。その伝統は、モリエールやマリボーら、フランスの劇作家の作品にもあらわれている。よきライバルだったカルロ・ゴッツィとカルロ・ゴルドーニが、18世紀イタリアでコメディアの伝統を復活させ、それを革新しようとした。卑俗で即興を基本とする演劇形式は、大衆芸能の世界に根強くのこり、そこでは劇作家や演出家ではなく、俳優が創造性を保持することができた。

"コメディア・デラルテ" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.




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